メディアプラクティスの価値
先日、自分のやっているNPO法人bootopiaでオープンなミートアップを実施した。
うごかせるもの/movable - NPO法人bootopia
テーマは〈うごいている日本語〉。日本語を固定的な規範や技能の集合としてではなく、社会のなかでうごいているものとして考える。さらに、そのうごきをいわゆる「課題」としてだけではなくて、新しい日本語が生まれつつある「機会」として捉える。そんなアイデアに関心をもつ人が集まり、交流できる場を設計/編集したいと思って開催した。
イベントとしてみると、いろいろな要素が含まれていた。トークは広い意味で日本語教育/学習にかかわる研究者(古屋憲章、福永由佳、松田真希子)や、同世代でこの問題に関心のありそうな批評家(黒嵜想と山本浩貴、後者は批評家って呼ぶべきかわからないが批評的な仕事をしていると思うので)をゲストに迎えた。
空間演出は瑞工商会市ノ倉というアーティストの集団にお願いした(ポップアップもやってくれた)。全体のアートディレクション・情報デザインやトークの企画・仕切りは弊団体のメンバー(前者は太田知也、後者は松本友也)による。
ほかにも激ウマなブリトーをキクさんに、音楽を宮城慶知に選曲してもらったり、各種のお手伝いを友人知人に助けてもらったり(お手伝いといっても簡単に代替可能なものではなくて、アーカイブの撮影や来場者のもてなしなど、ひとつひとつが重要な作業)。
こうした人々の協力のおかげで、反省点はあれども、全体としては当初の期待値を上回ることができたと思う。今後の事業活動につながる出会いも数多くあった。
こういうイベントがおもしろいのは、メディアプラクティスの価値を実感できるところだ。言葉がわかりづらければ、編集的実践でもキュレーションでもなんでもいい。
説明すると、メディアプラクティスとは、トークや空間演出、メシ、ポップアップといった要素を有機的に組み合わせて場を成立させたり、写真や記事でまとめたり。とにかく手間がかかる実践である。
メディアプラクティスの必要性は、言葉だけでは理解されづらい。トークならトーク、展示なら展示、メシならメシ、全部バラバラでもいいではないか。そんな疑問をもたれる。なんなら、自分でもそう思うことがある。
しかし、実際にやってみれば、その有効性はすぐにわかる。
今回で言えば、NPO法人bootopiaという団体は、そもそも日本語について考えるために立ち上げた団体ではなかった。ブートピアは、自分が島根県の津和野町に暮らしていたとき、高校生のための下宿を運営するために立ち上げたものだからだ。
それから10年弱の時間が経って、たまたま〈うごいている日本語〉というテーマに行き当たったのである。
だから今回のイベントでは、新しい領域における重要な人物や情報と出会ったり、もともと取り組んでいた分野との関係性やそこでの蓄積を知ってもらったりしなければならなかった。
このような目的において、メディアプラクティスはとても役に立つ。有形無形の要素を散りばめ、また結びつけることで、自分たちの「世界観」を表現できるからだ。
「世界観」ではボンヤリしすぎてるとすれば、変容・評判・責任・信頼・立場・文脈・系譜といった言葉を足すことができるかもしれない。これらの要素は、バラバラに調査したり人に会ったり、コンテンツをつくったりソーシャルにポストしたりしても、なかなか得られない。
今年は自主事業でもクライアントワークでも、こうしたアウトプットを増やしていこうと思っている。泣けるほど月並みな言い方だが、メディアプラクティスには人間的な、あまりに人間的な価値があるからだ。1
昔に比べれば、プロセスそのものはAIのおかげでだいぶ省力化できるようになったしね。







